「時間」って何だろうなって、考える時がある。
例えば、現在過去未来って言葉があって、これは時間にまつわる代表的な言葉だろう。
ここに、X軸を引く。
原点Oを現在とすれば、マイナス方向は過去でプラス方向は未来ってことになるな。
さて、X軸に目盛りを作ろう。
一秒二秒三秒。一秒後の未来、一秒前の過去。
たった一秒でも未来は未来だし過去は過去。
じゃあ、原点Oと一秒後の間には何がある?
多分、0.1秒後とか0.01秒後とかがある。
どんどん目盛りを細分化していこう。
100憶分の1秒後とかもきっとあるね。
こんな風に細かくしていくと、理論上は無限に未来を細分化できる。
でもさ、現在ってどこにあるんだろうね。
話を過去にしても同じこと。
100憶分の1秒前、それもれっきとした過去だ。
だけど、そんな風に考えていくと現在が掴めない。
現在は確かにここにあるはずなのに、どれだけ進んでも届かない。
ただし、今の考え方は時間が進みも戻りもしていない状態を前提にしている。
時が止まった状態で、その一秒後や一秒前を論じているわけだな。
でも、実際には時間は止まらない。常に進み続ける。
そう考えれば、現在はやはり常にここにあると言える。
昔、一般人向けの相対性理論の本を手に取ったことがある。
専門知識がない人向けの、特殊相対性理論。
読んでみたんだが、冒頭で挫折した。
物凄く易しい入門書だったんだけど、読み進めることができなかった。
序盤の序盤で引っかかってしまってね。
挫折して読んでないから、結局相対性理論に関してはよくわからないままなんだが。
ともあれ、相対性理論では「時間」というものが大きく関わって来るものらしい。という程度には読んだわけだ。
私が引っかかったのはまさにそこ。
そもそもさ、「時間」って何なのよ。
本には「時間とは何か」とは書いてない。
「時間」ってものが何なのか、当然それがわかっている前提で話が進んでいくのね。
そりゃ、ごく観念的には私にもわかるよ。
説明しろって言われると存外難しいけど。
そもそもさ、時間ってのは目には見えないし触れもしない。
粒子や波があるわけでもなく(少なくとも私はそう認識している)、つまり得体が知れない。
時間なんていう物質があるわけじゃないのさ。
それは、本当に「存在している」と言えるの?
そこに疑問を持つから、「時間が存在している」という前提で話が進むとわからなくなる。
目に見えない、触れない、物質的なものはない。
そんな時間というものを私達はどう認識しているのか。
一つは、時計。腹時計なんてものもある。
ありもしないものを、動きや変化という形で目に見えるようにしているわけだな。
思うに、「時間」というものはない。
ただ、「時間の経過」が物事の変化という形で認識されるにすぎないと私は思う。
いや、それは私の個人的な感じ方であって、「時間」を確かに存在するものとする相対性理論に立ち向かいたいわけじゃない。
私はそんなに頭良くない。
主観的に考える。
人間の認識として時間が感じられるのは、そこには常に何かの変化がある。
逆を言えば、何も変化しない世界があった時、そこに時間を感じることはできないはずだ。
一つ思考実験をしよう。
ここに箱を用意する。
この箱の材質は、表面的にも質的にも変化しないものとする。
この箱の中に、虚空を詰め込む。
変な言い回しになったな。
この箱の中には何もないものとする。
空気もない。一切の分子も原子もない、真なる真空。
当然、この箱の中は何も変化しないはずだ。
何分経とうが何億年経とうが。
では、何の物質もなく、光もなく音もないこの箱の中に時間は存在するのか?
設定をもっと拡張してもい。
箱を取り払おう。
そして、世界を虚空で満たしてみよう。
箱さえもない。真に何もない世界。
そこに時間は存在するのか。
何もないと言いながら時間の存在の有無を問うている時点で言葉に矛盾があるように思えるが、まあいいだろう。
多分、それでも時間は「ある」んだろう。
私としては「時間は存在しない。ただ、観測可能な変化があるだけだ」という考え方だが、その考え方を採用すると相対性理論はどうなるんだってことになる。
だから多分、「時間は存在する」との考え方が普遍的なんだろうと想像する。
「主観的に考える」などと言いながら、最終的にはその主観から逸脱しようとするかのような考え方になった。
悪い癖だな。
本当に主観的に考えようと思うなら、主体(観測者)を無視した「何もない世界」を想定すること自体が間違いだ。
「時間」というものをきちんと定義して、その上で相対性理論を素人でもわかるように易しく解説してくれる入門書とか、どこかにないだろうか。
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