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16 2019

悪役令嬢ものを読んでみた4

「破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」山口悟・ひだかなみ



感想第四回。
大体五回くらいで終わる予定。








面倒だから、おさらいは割愛。
今回は、この作品で私が最も好きな部分について語る。



主人公の笑顔。

これに尽きる。
この漫画、主人公カタリナ・クラエスの笑顔が非常に多く描写されている。
その笑顔については作画担当の画力と技術のなせる業であることは確かだが、そのバックボーンとして、原作にて形作られたカタリナのキャラクターがあることは疑いない。

私は笑顔が大好きだ。
自分でもなんでだろう?って不思議になるくらい、笑顔が好きだ。
人の顔を思い出す時は、必ず、笑顔で思い出す。

カタリナは、本編中でたくさんの魅力的な笑顔を私に見せてくれる。
これまで語ってきたカタリナの性質とその魅力、それを基とする笑顔。
ただ笑っているのではない。
強固な必然を伴う笑顔。
とってつけた笑顔ではない。
笑うべくして笑う。
微笑むべくして微笑む。
そんな笑顔が、この漫画の中には溢れている。

作画の技量は確かだ。
素敵な笑顔を描くことのできる作家さんだと思う。
だがそれだけではない。
それは、原作小説では難しい表現でもあるからだ。



私は原則として、ラノベを好んで読まない。
一時期読み漁っていた時期もあるが、ほんのひと時に過ぎず、昨今のラノベ好きと比べれば読んだ内には入るまい。
結構昔の話だしな。
今時は、メディアワークスとか角川が強いのかな。
私がラノベを多く読んでいたのは、富士見ファンタジア全盛の頃。
電撃文庫なんか、ロクに店頭に並んでいなかった時代だ。
今は、富士見ファンタジアと電撃の力関係は完全に逆転していると見える。

んな話はどうでもいいな。
とりあえず、刃渡がラノベを全く知らないわけではない、という程度に認識してくれればそれでいい。



ラノベってのは、その多くが一人称視点で語られる。
一人称という文体、という言い方もできる。
地の文が「私」や「俺」を主語とする一人称文体であるということ。

結論から先に言ってしまうと、一人称文体で主人公(語り手)自身の視覚的描写をすることは非常に難しいということ。

…………。

え? できるでしょ?
ってノータイムで思ったのなら、貴方は文芸に対する知見が少ないと言わざるを得ない。
いや、まあ、そんなもの少なくてもいいんだけどね。
それが足りないからと言って、生き死にに関わるわけでもなし。
文芸ではなくラノベを読んで、且つ書く分にはいらないものだと思うし。
文芸を志すのでない限り、いらないものではある。



一人称ってのはさ、ある作中人物の視点なんだよ。
それは主人公かもしれないし、ただの語り手かもしれない。
まあ、多くのラノベの場合には主人公なんだけど。
読者はその主人公のを通して作品世界に触れることになる。
だから、主人公の見ているものがそのまま読者の見ているものになる。

でな。
読者が主人公の目から世界を見るってなった時に、見ることが非常に難しいものが一つあるんだよ。
もうわかるよね。
主人公自身だ。
主人公自身の語りであるが故に、主人公の思考を「見る」ことは、読者にとって容易なことだ。
だけど、視点が主人公の目であるが故に、読者は主人公の容姿を「見る」ことができない。

当たり前だよね。
鏡や自分を写した写真や映像以外の方法で、自分の姿を見ることのできる人間はいない。
人間どころか、そんな生物は存在しない。

「破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」っていう小説も、ラノベのご多分に漏れない一人称小説だ。
何が言いたいか、わかるよね。
一人称小説であるが故に、主人公の客観的描写は皆無なんだよ。
一人称小説で主人公、あるいは語り手の「笑顔」を読者に「見せる」ことが簡単ではないってこと、理解してもらえるだろうか。

人間ってのはさ、意識的に笑う以外にも笑顔を見せる時がある。
意識的に作られた笑顔は、一人称で表現することは容易い。
だけど、思わずこぼれる笑みを一人称で「見せる」ことはとても難しい。
三人称なら簡単だけどな。



私がこの漫画を評価する一因はそこにある。
小説で充分に表現できていなかった主人公の笑顔を、こんなにもたくさん表現している。
その笑顔は作中人物を「タラシ込む」だけでなく、読者をも魅了してやまない。

本当に、素敵な笑顔を描く作家さんだと思う。
この笑顔こそが、小説では「見せる」ことのできなかった主人公カタリナ・クラエスの最大の魅力だろうと私は思う。




一巻の最後。
主要登場人物がカタリナを中心に集い、みんなで笑顔でいるコマがある。
私がこの作品を愛する最大の理由は、この一コマにある。

ありきたりな恋愛じゃなく。
ただ、楽しそうで幸せそうな光景がそこにある。
カタリナはみんなのことが好きで、そこにいる誰もがカタリナのことが大好きだ。
カタリナ自身にとっても、「それ」はかけがえのないもので。

カタリナの生存という行動原理とか。
各キャラクターの色々な思惑や気持ちもある中で、だけどそこには確かに、全員が笑顔でいられるだけの幸福がある。
それは決して、ご都合主義で上っ面なものではなく、確固たる造形と構築によってもたらされた物語上の、創作としての「幸福」なんだと思う。

そういうものが、私は大好きだ。

バッドエンドに美学を持つ私だが、これほどのものが作れるのであれば、ご都合主義ではない、上っ面ではない笑顔が見せられるのであれば。






ま、残念ながら、小説だけではこの境地には至れなかっただろうことは確かなんだけど。
作画があってこそだろう。


ハッキリ言ってしまえば、原作者の文章技術はお粗末なものだ。
一人称で主人公の笑顔とその魅力を充分に表現できるだけの技量はない。
優れた作画担当と組んで初めて、この魅力を出すことができる。

ラノベの暗黒面だな。
メディアミックスしないと真価を発揮できない。
そのため、小説単品では漫画原作程度の価値しかなく、文芸としては評価の壇上に乗せることすらままならない。

言ったっけ?
ラノベのそういう性質ゆえに、私はラノベの文章を評価しない
これは「低評価をする」という意味ではない。
評価の対象にしないという意味だ。
ラノベの文章は、文芸として評価する意味がない。
なぜなら、それは文芸ではないし、テキスト作品として単品で真価を発揮するものではないから。
メディアミックスして初めて真価を発揮するものを文芸として評価することはできない。

文芸として評価しようとしても、技術がなさ過ぎて酷評しかできないしな。
そもそもラノベを文芸として評価すること自体がナンセンスだとも言える。



逆に言えば。
出版社の目に留まってメディアミックス展開……ってことがなければ、文芸になっていないテキスト作品でしかない。
文であるにもかかわらず、文の特質を最大限利用できないなら産廃と同義。
イラストを描く鍛錬を積んだ方がマシだと思うレベル。
文章なら人並み以上のことができると思った?
残念。
テキストの世界にも悪鬼羅刹と修羅がいる。
軽い気持ちで「絵が描けないから小説書こう」なんて奴は鼻息で抹消されるレベルの世界がある。
(ラノベという世界は、そういうテキストの悪鬼たちとは隔絶された世界にいるわけだけどな)

もっとも、絵に挫折してテキストに流れる人が多い中でそれを言うのは酷だろうが。



ふざけんなよ。
お前らが「絵が描けないから文章で」って言って簡単に見てる文章ってやつを、義務教育9年間投じてまだ足りずに高校で新聞部、大学で文芸部に入ってようやく人並みの作文が書けるようになった人間だっているんだよ。

私のことだけどな。



そういう私の目から見て、「絵が描けないから文章で」ってのは本当に腹が立つ。
お前らは、私が人並みに作文を書けるようになるまでに費やした努力と同じだけの努力を絵に対して費やしたのか?
「絵が描けないから文章で」ってのは、10年以上もの年月を「人並みに作文を書けるようになる」って目的のために費やした私にとっては侮辱にも等しい。
私が10年以上費やした文章というものを、お前らは「絵が描けないから」と簡単に乗り換える先の逃げ場にしているんだ。

その割に、10年以上を費やした私以下の技術でしか文章を書けない癖に、「私は面白いものを書きました」ってドヤ顔をする。

ああ、わかってる。
ひがみだ、こんなものは。
人並みの文才すら持つことのなかった私のひがみだ。





コンプレックスを垂れ流す文章になってしまった。
反省している。
まあ、直す気もないけどな。

原作小説は、(文芸としてはともかく)漫画原作としては非常に優秀で、それを漫画にした作画担当の作家は本当に実力のある方だと思う。
そういう才能ある人たちのコラボレーションとして、この漫画作品があるんだろう。
この漫画作品は、非常にすぐれた作品だという見解は、最初から変わっていない。

このような漫画作品に出会えたことを感謝しよう。





もう少し喋るか。
苦言的なものを。

というわけで、次回最終回。
誰も期待してないし読んでもいないだろうが、こうご期待。



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