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18 2019

「言葉」

2013年執筆。
気が向いたから復刻転載。

ただし、ブログ転載に際して、一部に最適化を施しています。


一応、悪役令嬢の感想最終回は今週末に書く予定。








 言葉とは何か。

 そんな問いかけをすると、これから哲学の話でも始まるんじゃないかと思える。
 私は、哲学には疎い。
 何も知らないに等しい。
 興味がないわけじゃないけど、哲学の本を読む気にはなれない。

 まあ、哲学だけじゃないんだけどね。

 そもそも、私は学者さんの書く文章が大嫌いだから。
 なんでって、そんなもん単純な理由。

 ワケがわからないから。

 語られている内容の難解さっていうのも、もちろんあると思う。
 だけど、私がそれ以上に嫌いなのは、言葉の難解さ。
 わかりにくい単語をこれでもかと使う人が多い。

 受験英語とおんなじで。
 知らない単語、難解な単語が一つ二つあるくらいなら、文脈から意味を把握することは可能だ。
 でも、一文中にそんなのが四個も五個も出てきた挙句、その上に論理を展開するものだからついていくのはもはや不可能。

 言葉の意味くらい調べろ?
 国語の辞書に載っているレベルならまだ調べてもいいけど。
 って言うか、辞書引いたから意味が理解できるってものでもないでしょ。
 辞書に載ってる説明が既にわかりにくいとか、よくある話。

 それに、私は研究者じゃない。
 ちょっと興味を持ったから、程度の動機で手に取った本で、そこまでしたくない。
 一般向けと思うから、手に取るんじゃん?
 なのにそんな文章じゃ、やってられない。
 嫌にもなるでしょ。

 当たり前のように難解な単語を運用する態度が、大嫌いなのよ。
 学者対象の論文とかならいいよ。
 でも、一般向けの本でやるなよ。
 読ませる気、ある?
 それとも、知識とか教養、ボキャブラリーの少ない人はそもそもお断りなワケ?
 図に乗るなよ。

 って思ってイライラするから、学者さんの文章は嫌い。
 まあ、学者さんの全てがそうであるわけじゃないけど。


 とにかく。
 学者さんが書いたというだけで私にとっては印象が悪く、したがって、その手の本を手に取る機会も少なくなる。
 結局の所、まともに読んだことのある哲学の本は、漫画形式のニーチェ入門書くらい。
 しかも、それを読んだのもつい最近の話。

 つまり、私は哲学なんて知らない。
 少なくとも、学問としての哲学は。
 もちろん、難解な語を毛嫌いしているので、自分で文章書くときも極力そういう単語は避ける。
 まあ、避けるっつーか、学者さんが好んで使うような語に関して、ボキャブラリーが少ないだけなんだけどね。



 話を戻そうか。
 まあ、さっきの話も、全くの無関係ってわけじゃないんだけど。



 言葉とは何か。

 これだね。
 まず真っ先に思いつくのは、

「コミュニケーションツール」

 という回答。
 そりゃそうだ。
 言葉で意志の疎通を図るのは、この地球上で人間にのみ許された特権。

 「おはよう」
 「こんにちわ」
 「愛してる」
 「大っ嫌い!」

 もし言葉がなかったら、困ってしまいますね。
 ということで、これも一つの正解。


 じゃあ、他には?


 まあ、冒頭の文章で、私自身が正解を言っているようなものなんだけど。

 意志の疎通、と言う。
 自分の考えや気持ちを、お互いに通じ合わせるって意味だね。
 でもその前に、やらなきゃいけないことがある。

 伝えたいことを、言葉に置き換えること。

 これをやらないと、言葉による意思疎通も何も始まらない。
 じゃあ、気持ちを言葉に置き換えるって、どういうこと?
 そのまんまだよね。
 何かもやっとしたものが胸の中に生まれたとする。
 自分の知っている言葉の中から、それに近いと思われる言葉をチョイスする。
 作業としては、こんな感じ。

 気持ちだけじゃない。
 言葉は、実に多くのものを代弁してくれる。

 もし、言葉がなかったら。
 何かもやっとしたものが胸の中に生まれても、そこまで。
 「このもやっとしたものは何だろう」とすら頭の中には浮かばない。
 それも言葉だからね。
 形にならないものが、いつまでも胸の中でごちゃごちゃにうずまく。
 そんな感じになるかもしれない。
 私は既に、言葉がない状態を想像できなくなっているけど。
 いや、正確には「思い出せなくなっている」って言った方が正しいのかな。

 言葉を知らなかった頃を覚えている人って、います?
 今もし自分が、喋るための言葉だけでなく、自分の頭の中からも完全に言葉が失われてしまったらどうなるか。
 想像、できますか?
 私はできません。

 人の内面には、いつだって言葉がある。
 人の内面の全てが言葉であるわけじゃないけど。
 言葉があり、文法がある。
 文法とは論理であり、論理は思考を助ける。
 自分の中を言葉に置き換えるってことは、自分の内面を整理できるってこと。
 目にも見えないし触れもしない。そんなもん、どうやって扱えばいいの?
 人の心の中にはそんなものばかり。
 それに言葉という形を与えることで、取り回しをしやすくしてる。

 感情が爆発するような時って、言葉はそれについてこれないことが多い。
 でもほとんどの場合、言葉を使って頭を動かすでしょ。
 漫画や小説でもあるよ。
 モノローグってやつ。
 あれは、言葉をコミュニケーションツールとして使っていない良い例。

 ──とくん
 ああ、私は。
 この気持ちは。
 私、やっぱり彼のことが好き。

 なーんてね。
 気持ちを言葉に換えて、その言葉からより自分を自覚してる。
 言葉があるから、自分をより把握できる。
 把握できるから、それを伝えることができる。

 それが、言葉。



 私にとって言葉っていうのは。

「コミュニケーションツール」
「自己の精神を構築し、整理するツール」

 という二つの意味がある。

 まあ、他にも色々あるのかもしれないけど、私が重要視しているのはこの二つ。





 さてさて。

 そんな重要な意味を持つ「言葉」なんだけど。
 結論から先に言ってしまいます。


「言葉は万能ではない」


 まあ、当たり前の話。
 言葉が万能だと思っている人の方が少数派でしょう。
 誰も言わないもんね、言葉は万能だ、なんて。
 学校でもそんなこと教えないし。
 だから、言葉が万能じゃないことは誰でも知ってる。


 ……本当に?


 じゃあ、言葉は具体的に「どう万能じゃないのか」?
 質問の質が悪いね。
 「万能ではない」ということは、「限界がある」ということだと私は思う。
 質問を変えると、

「言葉の限界とは?」

 になるかな。
 簡単な問題じゃないと思う。
 簡単と思う人もいるかもだけど。

 私が簡単じゃないと思う理由は、

「日常生活の中で、言葉を限界まで使うシチュエーションが少ないから」

 限界っていうのは、それを目一杯使ってこそ見えてくるもの。
 普通に暮らす中で、限界まで言葉を使わなきゃならない状況って、多くないと思う。
 いや、なんか違うな。
 状況自体は少なくないかも。
 多分、誰もが言葉の限界を感じているはず。
 だけど、明確に「これが言葉の限界だ!」て自覚できる機会が少ないって感じかな。

 さっきも少し触れたけど、言葉にするから自覚できることってたくさんある。
 自覚はしているけど、言葉にはなっていないなんてことは、日常茶飯事。
 言葉を伴う自覚と伴わない自覚とでは、意識が違う。
 その後の取り回しが違う。
 言葉にならずにもやもやした状態ではロクに扱えないけど、言葉にできれば明確に思考の材料として組み込めるから。
 人の話や文章に触れていて、物凄い共感できるとか物凄いわかるっていうのは、これだったりすることが多い。
 つまり、自分の中のもやもやが、人の言葉によって形を与えられること。
 自分の内面に言葉という形を与えるのは、何も自分だけじゃないってことね。

 だから多分、言葉の限界も誰もが感じていること。
 でもそれを、自分の中で言葉に置き換える「必要があるかどうか」。
 これは、人によって違う。
 頭の良し悪しとは関係なく、必要がなければ能動的に自覚する必要もないってこと。



 言葉の限界の話に戻ろうか。

 よくよく考えてみると、言葉の限界なんてものはそこらじゅうに落ちてる。
 自分で「目一杯使ってこそ限界が見える」なんて言ったけど、前言撤回。
 そこまでやらなくても、世の中に「言葉の限界」は溢れてる。

 例えばの話。
 ケンカ。
 主義思想の対立からケンカに発展するっていうのはまだいいとしても。
 くだらないことでケンカする人って、いくらでもいる。
 私の両親も、「なんでこんなことでケンカできるんだろう」みたいな理由でケンカしてた。
 私が見る限り、些細な誤解が原因になってることが多い。
 なんで誤解が生まれるのか。

「言葉の意味を取り違える」

 これがダントツで多い気がする。
 「そういう意味で言ったんじゃない」ってことをきちんと説明できればいいんだろうとは思う。
 でも、それをやろうとしている頃には頭に血が上ってしまい手遅れ。
 後は売り言葉に買い言葉。本当にありがとうございました。

 使い道も使う状況も限定される専門用語の類なら、言葉の意味はおおよそ単一だと思う。
 だけど、日常会話で使われる言葉はそうはいかない。
 使う状況によって意味が変わるなんてことは日常茶飯事だし。
 同じ状況で同じ言葉を使っても、使う人によって意味が微妙に変わるってことも日常茶飯事。
 些細な差異なら大きな問題にはなりにくいけど、ケンカに発展するくらい差があることももちろん日常茶飯事。

 もし言葉が万能なら、そもそも誤解なんて生まれない。

 限界と言うか欠陥だらけとさえ言える。
 そんな言葉の限界と欠陥を補うために、人は色んな工夫と苦労をしてきたわけだ。



 んで。
 誤解くらいなら、まだ減らせるからいい。
 完全にゼロにすることは不可能かもしれないけど、極限まで減らすことは可能だと思う。

 でもなあ。
 誰でも経験あると思うけど。

「どうしてわかってくれないの?」

 って、思ったことないですか?
 誰かに何かを説明する時とか。
 自分の考えを伝えようとしている時。
 自分の気持ちを理解して欲しい時。
 絶対、あるよね。

 なんでこんなことになるんですか。
 言葉が万能なら、こんなことはないはずだよね。
 ……いや。
 仮に言葉自体の機能が万能だったとしても、これはどうしようもないんじゃないかという気がする。

 気持ちでも考えでも同じなんだけど。
 一つの気持ちを言葉にした時に、それは本当に貴方の気持ちを100%表していますか?
 これ、「はい」と答えられる人は滅多にいないと思うけど。
 どうしても、足らない部分が出てくるでしょ。

 この手の話をする時、私は必ず「好き」を引き合いに出す。

 もう貴方のことが好きで好きでしょうがない。
 そんな私の気持ちを貴方に伝えるとします。

「貴方のことが、好き」

 さて、これで何がどれ程伝わるでしょうか。

「貴方のことが、世界で一番好き」

 多少絞られてきた。

「貴方のことが、世界で一番好きで、もう×××しちゃいたい」

 エロくなってきた。

 んー、じゃあ、これで完璧?
 つーかそれ、「世界で一番×××したい人」ってだけじゃね?
 とか言われちゃったらどうしましょう。

「貴方のことが世界で一番好きで×××しちゃいたいくらいで、だけど身体が目当てじゃないのよ?」

 見苦しいなオイ。
 てか、言葉を重ねれば重ねるほど嘘っぽくならないか?
 ま、例えが悪いのは認めるけど。
 もう抱きついてぺろぺろするしかねーな。

 と言って抱きついてぺろぺろして×××しちゃったら、それはもう言葉じゃないよね。
 そこまでやってさえ、気持ちを100%相手に伝えられるかどうかはわからない。
 とゆーか、伝わらない。どう考えても100%は無理だと私は思う。
 こうして、いとも簡単に言葉はその欠陥と限界を露呈するのでした。

 だってさー。
 自分と相手の頭なり胸なりを、ぶっといパイプみたいなので繋げて、そこに感情を直接流し込むとかしない限り、無理でしょ。
 そんな風に繋げること自体が不可能なんだから、これはもう不可能と思うしかない。
 科学の進歩で、何かしら繋げることができたとしよう。
 だけど、本当に気持ちが伝わったかどうか、誰に判断できるの?
 本人達?
 それは、思い込みではなく、本当にそうなの?
 てか、完全に繋がっちゃったら、それはもう個人ではないよね。
 人類補完計画? そんな話もありました。



 私に言わせれば、言葉なんてものはただの記号。
 ないと不便だし困るけど、神様のごとき力を持ってるわけじゃない。

 言霊なんてものがある。
 これは、言葉自体に力が宿るっていう思想。
 オカルトやファンタジーの設定としては美味しい。
 だけど、私はこれを信じていないらしい。

 言葉ありき、じゃあないんだ。
 言葉が力を持っているわけじゃないんだ。

 人が、言葉に力を与えているんだよ。

 言葉に力を与えるのは、人の意志だ。
 だから、言葉の力とは、意志の力だ。

 言葉はどこまで行っても、器に過ぎないと思う。
 自分の気持ちや感情を掬う器。
 でもそれはとても小さくて、穴だらけだから、気持ちを掬い切るには不充分に過ぎるのさ。



 確かに、人は言葉を以って思考する。
 いかなる論理も理論も、言葉を土台にして構築される。

 だけどさ。
 言葉ありきではダメだと思う。
 言葉ありきで何かを作るのは、失敗に繋がると私は思う。

 失敗っていうのはちょっと違うかな。

 言葉ってのは、小さいものだよ。
 とても小さいものだよ。
 欠陥だらけなんだよ。
 何もかもを、全てを表現するには、あまりにも小さいものなんだよ。
 そんな言葉のできる範囲で何かをすること。
 言葉をのみ土台にして何かを築いても、小さな皿の上に更に小さな料理を少量盛り付けるだけ。
 欠陥だらけの言葉を土台にするから、どこかで矛盾や破綻をきたすんだと思う。

 ほーら。
 私だって、何も言えてない。
 読み返しても、何も伝えられていないのがわかる。

 もう少しだけ、頑張ってみるかな。



 なんつーかな。
 そんなに難しい話じゃないんだ。

 たまにね、見かけるのさ。
 言葉に引きずられてるような文章を。
 あるいは理論を。理屈を。

 逆、なんだよね。

 人間が言葉を生んだんであって、言葉が人間を生み出したわけじゃない。
 言葉に合わせて自然が存在するんじゃない。
 自然と事物があって、そこに言葉が当てはめられたってこと。
 意味って言ってもいい。ただ、意味って言ってしまうと、ちょっと話が込み入ってくるから、できれば言いたくなかったけど。

 言葉を盲信することは、その関係を時に逆転させる。
 自然に、事物や事象に、そして世界に言葉が当てはめられたはずなのに。
 なぜか、言葉に世界を押し込もうとしている。
 大洋の水をグラスで掬い、「大洋の一部だ」と言うのが言葉。一部しか掬えないのが言葉。
 グラスで掬った水を指して「大洋の全てである」とは、誰も言わない。
 小さなグラスに大洋の水が全て入るはずがない。
 言葉と世界を逆転させることは、小さなグラスに大洋の水を全て押し込めようとする行為に他ならない。

 私が

「言葉ありきじゃない」

 と言うのはそういう意味。
 この辺の私の感じたことや印象を上手く言えないのが歯がゆいんだけど。
 たまに見かけるのよ。
 小説でも論説でもなんでも、そんな、世界と言葉が逆転してしまったような文章を。言葉を。
 それは、本来の言葉のあり方と違うと私は思う。

 具体例を挙げられればいいんだけど……上手くいかない。
 私もまだまだ未熟だね。
 強いて言うなら、理系より文系に特化した人の文章かな。
 論理性は言葉によって構築されるけど、言葉だけで論理性が成り立つわけじゃない。
 なぜって。
 言葉は欠陥だらけなんだから。
 それのみで論理性を築こうってこと自体が間違ってる。
 グラス一杯の大洋の水を「大洋の全て」として扱う論理は、矛盾を生んで当たり前。
 論理性を築くのであれ、何かの理論を構築するのであれ、小説を書くのでも何でも同じ。
 言葉に世界を押し込めれば、世界は小さなものになる。
 グラスから溢れた分を、ないものとして扱ってはダメ。

 考えなければいけないのは、言葉じゃない。
 世界も気持ちも考えも、グラスの中身だけを動かしてはダメ。
 グラスに掬わないと、そもそも触ることさえ困難だけど。
 そのグラスの中身が全てじゃない。
 気持ちを言葉というグラスに掬ったら、気持ちの整理はグラスだけを動かさないで、掬えなかった余りも意識して。
 グラスの中身だけを伝えても、貴方の中には掬いきれなかった気持ちが残ってしまうよ。
 掬いきれなかった分は、整理もされずに残り続けてしまうよ。

 掬いきれなかった分は、もしかしたら他の器で掬えるかもしれない。
 言葉以外の何かが、それを掬ってくれるかもしれない。
 でも、グラスに掬った分が全てと思い込んでしまったら、それもできなくなってしまうよ。



 言葉は記号に過ぎない。
 言葉には限界がある。
 言葉は欠陥だらけである。
 言葉は誤解を常に生む。
 言葉に力はない。
 言葉に力を与えるのは、人間の意志である。
 言葉は世界の一部を表すが、言葉は世界ではない。
 世界は言葉ではない。
 言葉という小さな器で、世界を、気持ちを、考えを、そして私を、型にはめようなんて窮屈すぎる。



 私は、言葉を必ずしも信じてない。
 だから私は、言葉で何かを伝えようとは思わない。
 言葉で何かを直接伝えることはできない。
 伝えたいことを伝えるために、言葉を利用するというだけ。
 言葉は、手段の一つに過ぎないんだよ。
 言葉だけで勝負する小説であっても、同じこと。
 言葉だけのメディアだから、言葉で伝えようとするって考えはしない。
 言葉で伝えるんじゃない。言葉が伝えるんじゃない。



 私が伝えたいのは、言葉じゃないんだから。



 それでも。
 人間は言葉に頼らなければならないことがたくさんある。
 私は言葉に頼らなければならないことがたくさんある。
 ありすぎて困る。

 私は、言葉の限界と欠陥を知る必要があった。
 こだわる必要があった。
 誤解のないわかりやすい文章のために。
 誰かに何かを伝えるために。
 誰かに私を、伝えるために。









 ちと話が観念的になりすぎた。

 例えば、小説を書くとしよう。
 主人公がヒロインを、ヒロインが主人公を「好き」ってことを表現したいとする。
 告白シーンを設けて、「好き」って言わせりゃいいのか?
 そんなん、物足りない。
 誰かが自分の感情を吐露する。
 それは、感情の表現だ。
 この上なくわかりやすい感情表現だね。
 誰でもわかる。
 でも、それだけでわかることは最小限でしかないでしょ。
 だから、その「好き」を色んな形で表現するでしょ。
 胸がドキドキするとか。
 相手が誰かに傷つけられたのを見て激昂するとか。
 そういうエピソードの末に「好き」という言葉が重みを増すでしょ。
 つーか、きちんと描写してれば、本人達の告白さえ要らない。
 「好き」を表現するのに、「好き」という言葉は必要ないのよ。
 むしろ、「好き」という言葉が誤解を生むことさえあると思う。
 それくらい、アバウトなのさ、このストレートでシンプルな言葉は。

 も一つ、小説の書き方的なことで言わせてもらえば。

 自覚はあてにならない。

 昔、学生時代の先輩が書いた小説で、辟易したことがある。
 異常なまでに内省的な主人公で、自分の心理分析が的確すぎるんだわ。
 自分のことは自分が一番よく知ってるなんて、幻想でしょ。
 自分だからわからないこともあるし、むしろ人の方がわかってる部分もあったりするでしょ。

 別に、そういう主人公が悪いって言ってるんじゃない。
 そういう人も実際にいるだろうし、そういう主人公がいてもいい。
 問題だったのは、主人公の内省という体裁なのに、作者の分析にしか見えなかったこと。
 主人公の自己分析じゃないのよ。
 作者が主人公の心情を分析して、主人公はそれを台本通りに読んでいるだけ。
 自分のことなのに、客観的に過ぎたからだろうなー。
 だから、自分で自分のことを分析しているというよりは、第三者(この場合は作者)が分析しているように見えた。
 これは面白くないよ。

 モノローグとか本人の発話で全てを語ってしまう手法を否定する気はないけど。
 でも、自分のことが何でもわかってる人ばかりじゃないよね、世の中って。
 それに、今まで長々と話してきたことだけど、気持ちは言葉にした瞬間に劣化するから。
 どんなにたくさんの言葉を用いても、この劣化は避けられない。

 そう思うようになってから、私は発話やモノローグで直接感情を表現するのを控えるようにした。
 全然やらないわけじゃないけど、かなりやらなくなったんじゃないかな。
 『魔法戦士』でも、キャラの内面の発話(モノローグ)は、常時一行以内だしね。
 別の手法を考えるようになったけど……キリがなくなるからこの話はいずれ別の機会にでも。

 あー、ただね。
 モノローグや発話で語らせると感情表現の劣化を補えない、ってことはないよ。
 構成とか演出を工夫すれば充分補えるし、見事に補っている作品もたくさんあるし。
 ただ私が私の好みで、発話とモノローグを控えるようになったってだけ。



 表現したいのは「好き」という気持ちであって、「好き」という言葉じゃない。
 その気持ちをあぶりだすための舞台を、言葉で設えるんだよ。
 それが、小説における私の言葉の使い方。


 なんか、話がずれたかな。
 まあいいか。





「言葉は常に、嘘と誤解を孕んでいる」

 ってことを前提に、私の文章を読んで欲しい。
 ちょっと油断すれば、すぐに誤解を生むもの。
 油断してなくても、誤解は生まれるし。

 ちょっと触れたかもだけど。
 誰もが同じ言葉を同じ意味で使ってるわけじゃない。
 いつも意識して気をつけて書いているつもりだけど、どこでどんな誤解を生むかはわからない。
 だから、まあ……覚悟は必要。

 文章書く時。
 誰かに何かを話す時。
 そういう時は、いつもそういう覚悟はしているけど。



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